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私と本とその他色々

適応障害と私

 

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2020年年始、神戸空港で両親に見送られて東京に戻った。

また、ゴールデンウィークくらいには帰れるかな、遅くても絶対お盆には帰るかなくらいの気持ちだった。

 

私は2011年、18歳の頃から東京で一人暮らしをしている。

好奇心旺盛な性格もあって震災後の余震があろうとも「たのしい」「おもしろい」「刺激的」が勝って東京での初めての一人暮らしを満喫していた。

東京に出てきて実感したのは、私は極めて凡人であるという事であった。芸術全般が人よりも少し出来ると慢心していたが、それも東京と言う土地の中では個性にすらならなかった。

それでも凡人は凡人ながらに日々変わりゆく景色を楽しんでいた。

都会のネオン、遅くまで動き続ける電車、新宿のガチャガチャした街並みを歩いているとき、何者でもない私はその瞬間だけ何者かになれた気がした。

 

状況が変わったのが21歳の頃、母が病気になった。

当たり前だけど、私が年を重ねるのと同時に母も年を取っていくのだとその時初めて実感した。たった3年間だ、その間に人はこんなに老いるのか。

幸い命に別状があるものではなかったが、検査入院の日に読んだドストエフスキーの「罪と罰」の文字を追うごとに文字が脳を通り抜けていくあの奇妙な感覚を忘れることはないことが無いと思う。

 

そんな背景もあり、私は真面目に就職活動を行い、私の割には真面目に働いて、なるべく実家に帰るようにしていた。

そして2020年年始の神戸空港に至る。

2019年末にパニック障害で倒れたこともあり、実家で完全に元気な姿を見せられなかったことを自分の中で悔いていた。

金属探知機を通り抜け、振り返るとまだ両親がいた。

搭乗口に切り取られた長方形の景色の向こう。手を振る両親を見て申し訳なくて情けなくて泣きそうになりながら、ぐっとこらえて東京へと戻った。次会ったときは元気な姿を見せよう。

ゴールデンウィークには、お盆には。

 

そんな折にコロナが流行して生活は一変した。

私がまず考えたのは自分自身のことでも何でもなかった、母だ。基礎疾患を持ち、病弱な母、患ってしまったらひとたまりもない、冗談じゃない。

年末に帰ったとき、私は発作を起こしたり辛い姿を見せてしまった、元気な姿を見せていないのに冗談じゃない。

父も人関わる仕事をしていてリスクが低いわけでは無い。もう還暦もとっくの昔に越えている。喉の奥が締め付けられるような感覚だった。どうしてもっとうまくやれなかったんだろう。どうして笑って楽しそうにふるまう事すら出来なかったんだろう。

会いたかった。2020年ゴールデンウィーク時点ではまだ天文学数字だった。気にせず帰ってやろうかとも思った。でも、万が一自分が持ち帰って両親に何かあったら私は一生自分を責めるだろう。

いいや、私はこの先生きていくことが自信がない。だから私はここを動けない、動いてはいけない。

 

世界が平和であることが一番であることはわかっている。

でも、それを分かった上で自分の両親の無事を願わずにいられない。自分はどうでもいい、両親が無事ならそれでいい。

 

そのあと私生活で色々と起こったような気がするけれど、正直それはあまり覚えていない。

恐らく自分にとっては「事務手続き」であって何かの理論や法律や決まりに基づいて何かを行う事なのでそれほど体力を要するものでもなかった。

だからこそ、綺麗に片付いてしまえば、それをさほど気にすることもなかった。

 

ただ、神戸と東京で分断された時間は違った。

終わりも見えず、ただひたすらにどうなるかもわからないことに怯える毎日は自分の精神に悪影響を及ぼした。パニック障害の発作の数は増え、夜中に自分の叫び声で起きる。

願うような気持ちで週に一回実家に長い時間電話をかける。何を話すわけでもなく、ただ電話をつないでいるだけ。テレビ電話と言う手段もあったが、うまく食べることが出来ずその頃の体重が信じられないような数字で親に心配をかけることは明白だったのであえて繋がなかった。

 

毎週、毎週、願うような気持で週末にLINEの通話ボタンを押した。兵庫で何かが起こりようものなら私は死ぬんじゃないかと思った。

 

そんなストレスからついに絵を描くことが難しくなった。

こういうことは学生時代にもあったので「またか」と言う感覚だったのだけど、社会人になって起こすことが初めてで、しかも治る目途が立たないのでとても焦った。焦る気持ちが余計に気持ちを拗らせてしまった。

もう立てない、歩けない、何もしたくない、ただ親に会いたいだけなのに。

2020年冬、京葉線ホームで28歳の女がめいめいと泣き崩れる。震える手で頓服を飲みながら限界だなと思った。

 

パニック障害でかかっている医者に診断書を出してもらうことになった。

特に何の病気とはその文面に書かれることはなかったが、説明を聞く限り私はどうやら「適応障害」だった。何に適応できなかったんだろう。コロナ社会だろうか、とくだらないことを考えながら帰りの電車に乗った。

 

でも、私はその診断書を出すことが出来なかった。勇気がなかったのだ。

みんな同じ境遇で耐えてるのになぜ私だけそんなことが許されるのだろうか。何て言われるだろうと思うと怖かった。

 

そんなことを考えてるうちに3か月ほどたった。

その間も私は願うような気持ちでLINEの通話ボタンを押し、日々の感染者数に首を絞められるような気持ちでいた。ただ元気な姿を親に見せたいだけなのに、どうして上手くいかないんだろう。

 

12月、久々に友人と会う用事があり出かけたら湯呑を持っただけで手が痙攣を起こした。その場では普通をふるまっていたが、帰りの電車で足の痙攣が止まらなかった。

歩くことが出来ない、おかしいとおもって心拍数を測ると180ある。新年循環器内科にかかり、ホルター心電図を付けるとストレスで心拍数がえげつないことになってることが発覚した。すぐに心拍数を下げる薬を飲みながら生活することになった。

ついに精神の問題を超えた。にっちもさっちも行かなくなったので仕方なく二枚目の診断書を貰った。

そしてその診断書は勇気を出して上長に提出することとなった。こうして私の適応障害は会社として公になった。

 

口数も多いほうではなく、「話したところでどうなるんだろう」と自己完結する癖があるので周りの人にとってブラックボックスなのだろうと思う。正体不明の箱。

自分が正体不明の箱である自覚はあるのだが、私は箱を開ける上手な方法を知らないのでずっとずっとブラックボックス。そんなブラックボックスから吐き捨てられた診断書、どう思われただろう。

 

適応障害と名前の付いた私は、在宅を中心に難しくなったクリエイティブ業務をほかの方にお任せすることになった。

ほぼ脳死の面談の中で印象的だった言葉がある「できない部分の仕事をほかの人に任せることになるけれどそれでもいいのか」

悔しかった。苦労して掴んだものをいいですよと言えようか。私は「その質問に対して私はなんて答えるのが正解ですか」と質問を質問で返した。

もう訳がわからなかった。申し訳ない、情けない。いろんな感情が波のように押し寄せてきてそのあとの記憶はない。帰りの電車の中でただ親に会いたいだけなのにどうしてこうなったんだろうと考えていた。

 

診断書の提出後、焦った私は「本当に早く良くしたいのでお薬も変えたいです」と、先生にまで隠していた症状を全て告白し、薬を細かく変更することにした。

焦りからなのか自分で思い当たる症状を片っ端から調べ、片っ端から思い当たるサプリメントや漢方を飲んだ。高くついたが、いくつかが自分の精神にいい影響をもたらしたらしく、4月に入って人と話したり、テレビや映画を見たり、旅行に行けるまで回復をした。

旅行に行った写真を私は両親にリアルタイムで送った。

両親は私の元気そうな姿を喜んだ。久々に元気そうな姿を見せれたことで自分自身に対しても少し自信が付いた。

5月中旬以降はかなりの回復を見せた。一度自分の手を離れたクリエイティブ精神が少しずつだけど戻ってきた。嬉しかった、もうしばらくの間仕事と言う仕事が出来ていなかったような気がしていたからだ。

 

5月28日、父の65歳の誕生日の次の日、少し自分に自信のついた私は「テレビ電話をしようか」と実家に提案をし行うことになった。

私は、新宿のセレクトショップで買ったお気に入りのとびっきり明るいオレンジ色のニットを着てパソコンの前に座った。(このニットについては、とっても可愛いニットを買ったから今度帰ったときに見てほしいと母親に話していた)

 

1年半越しに実家の景色が映る。父も母も思ったよりも元気そうで、そして思ったよりも老けていなくって、私はとても安心した。老け込んでしまったのは私のほうなのかもしれない。

父は相変わらず私の父とは思えないほど明るい人で、届いたばかりのワクチン接種券を画面越しに自慢げに見せてくれた。

「よかったね、本当によかったね」

母は相変わらず物言いはおっとりとしている人だった。そして、私が母を心配しているのと同じくらい、私のことを心配していた。大丈夫だよ、食べてるよ。最近は頑張ってよくなろうと思って自炊してるの。冷凍のロールキャベツと野菜を煮てコンソメスープ作るだけなんだけど美味しいんだよ。

 

ひとしきり喋った後、またテレビ電話しようねと電話を切って、ボロボロと泣いた。

通話中は泣くものかと思っていた。本当によかった、終わりの見えない、答えの見えない暗い道を歩き続けるのが怖かった。大事なものを失うかもしれない、元気な姿を全然見せれてなかったことをずっと悔やんでいた。

それから両親がワクチンの接種日が決まった後も、ふと野菜を切っている瞬間などに涙が溢れる。

「当たり前の毎日は、未来永劫当たり前に続くわけでは無い」

 

コロナ社会は、私に適応障害と言う深い傷を残した。

多分、色々な側面でそれは消えることはないだろうし、ずっと考え続けるだろうと思う。元のように絵を描いたり物を考えたりすることが出来ないかもしれない。

でも、自分の性格的にいつかはなっていたものが、ちょうど今なったのではないだろうかと思う。

まだまだ油断が出来る状況でもないが、7月には両親の接種が完了するので、それが無事に終わることを願いながら、次に帰るころの想像をしてみるのもいいのかもしれない。こうやって、明確にイメージが出来るようになったことは、トンネルを抜けたような気分で嬉しい。

神戸空港だろうか、今年は明るい色の服をたくさん買ったの。見てほしいな。

何を着て帰ろう。泣き崩れるだろうけれど、笑顔で元気に会えるようにしよう。

 

「当たり前に続くわけでは無いからこそ、その瞬間を一番愛おしみ生きていきたい」

 

追記

母が倒れた時の日記を見つけたので。当時21歳

 

ツクツクボウシの鳴き声が頭の上から降ってくる、この声を聞く度に夏の終りが来たと思う。
夏の終りに、京都へ行った。予てから行きたいと思っていた西芳寺を中心に、いつもは行かないであろう場所を周った。

8月半ばに西芳寺へ拝観予約の葉書を出した。
その数日後、その拝観の予定日に母の手術が決まった。手術と言っても精密検査の為に肝臓の組織の一部を取る簡単なものではあったが、入院と膨大な量の書類を必要とする手術であることには変わりがなかった。
行かないでおこう、返信が帰ってきたら電話しよう。返信はがきが帰ってきたのはその次の日で、先方の都合により私が希望を出した次の日へと変更されていた。
「いいよ、行っておいで、そんなに難しい手術じゃないし。行きたかったんでしょう」
そして付け加えるように、これは皮肉でもなんでもないから、と言って笑われた。勘ぐり深い私の性格を良く把握している母の先手であった。私も笑った。

一週間ほど悩み、手術後の母の様子を見て考えようと思った。
手術当日、母を送り出し、家の仕事を一通り済ませから父の車で病院に向かった。病院に着いて、なんだとても快適な部屋じゃないのと他愛ない話をして、手術の時間を迎えた。風邪も引いたことがないような母のベッドに横たわる姿というのは違和感を感じるのと同時に不安を煽った。
本を読んで待った。ドストエフスキー罪と罰だった。一時間程で終わり、思ったよりも全然元気そうじゃないと憎まれ口を叩きながら内心ホッとした。
「明日どうすんの、行ってきなさいよ、別にいいから。今になって断るのも先様に失礼よ」
顔色も良い、母のそんな言葉に後押しをされ、始発のバスに乗り込み京都へ向かったのだった。

電車の窓から見える景色はいつも変わらないと思う、JRの少し向こうを平行に走る阪急鉄道の臙脂色は此処にしかない色だといつも窓際に頬杖を付きながらうっとりとする。
西芳寺へ付き、宗教行事に参加した後、護摩に願い事を書くように言われた。家内安全と書いた。本当は世界平和ぐらい書いてやりたいと思ったが、平和の裏には誰かが泣くことくらい20年そこら生きていれば知っている。
120種類の苔の織りなす庭園は正しく圧巻だった。
小さいものも力を合わせれば大きな力となる、コツコツと積み重ねることが大切だ。小さいころ絵本で読んだよな常識的なものを今目の前に具現化されたような、そんな気分だった。
バス停で隣に座ったフランス人の夫婦は先ほど庭園でも見かけた。ライカのデジカメを提げている。生活も豊かなのだろう。

嵐山を歩き、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を拝んだ。薄暗い部屋に陽炎のように浮かび上がる泣き弥勒がゆらゆらとしていた。私の頭から足の先までが共鳴するかのようにゆらゆらとしていた。

午後からは気の置けない友人と待ち合わせて伏見稲荷大社へ参った。
私以上に彼女がショックを受けていた。なんだか申し訳なくなって、大したこと無いの、今は母も私も全然平気と笑いかけたけれど、
「大丈夫な訳がないでしょう、なんで一人で抱え込んだの、なんで話してくれなかったの」と怒られた。やってしまった、と私も内心狼狽えた。何度同じことを繰り返すのだろう、何度同じことをすれば私は学習をするのだろう。
伏見稲荷大社の急な階段に足を痛めながら己の運動不足を嘆いたり、上がった息を整える為に立ち止まると藪蚊の群れに遭遇して泣く泣く歩くことを余儀なくされたり、とにかく久しぶりに沢山笑った。
そう言えば最後にこんなに笑ったのは何時だっただろう。夏休みに入る少し前だっただろうか。帰りの電車は行きに見た阪急電鉄だった。山の傾斜には小さな家の明かりが見える。時刻はもう9時を過ぎようとしていた。

母に写真を見せた、生まれも育ちもジャングルのような山で、生花の師範を取得するくらいの自然好きだ。いいね、お母さんも元気になったら行こうかしらと言っていた。
後何回、この季節をこうやって迎えることが出来るのだろう。
母の大切に育てているミカンの木は母が生きているうちに実をつけるだろうか。この木に花が咲くことが楽しみだと言っていた。この木に花が咲くまで生きていてくれるだろうか。
それならいっそ咲かなくてもいい。短絡的な自分の思考をあざ笑うように、夏の終わりが来た。残暑厳しい雨の日、私は東京へ戻った。

夏に読んだ本は20冊以上に上った。それは私が現実から目を背けた数だった。

ベートーベンのソナタテンペスト』は母の好きな一曲だった。テンペストの意味は嵐、シェイクスピアの戯曲に由来するものだ。
弾いたのは高校三年の時、ピアノを辞める前に最後に弾いた曲がこれだ。
小さい頃、人差し指一本から始めたピアノは、長い時間をかけて人に聴かせることが出来るまでになった。
ショパン好きの私がベートーベンの楽譜を手にすることは珍しいことだった。母がこんな曲貴方が弾けたらいいのにと皮肉ったのがきっかけだった。
「もう弾きたくない、何も聴きたくない、頭が痛い」
そうやって泣き喚いた時、なら辞めてしまえば?と母は言う。
「辞めない、嫌だ」泣きながらピアノに向かうことが恐らく分かっていたのだろう。もしかしたらこの時もそうだったのかもしれない。
「私、あなたのピアノを聴くの好きよ」テンペストを聴いた母の発した一言だった。

何を思い立ったか東京へ戻って直ぐにピアノ教室へ電話した。再び始めようと思った。

繰り返す日々の中で学校が始まった。
人と会いたくないと思いながらも、人と会うと楽しい。そう思う。嘘偽りなく、人間は大好きなのだ。
夏休みの出来事をクラスメイトに心配された。
泣くかと思った、ううん泣かない、意外と元気そうで安心した、うんありがとう元気、顔が死んでる、そう?一時期に比べたら全然平気。

平気。そう、平気なんだ。こんなことくらいどうってことない。
人に頼るとき、人に優しくされるとき、私は私が弱くなるような気がする。人に甘えることを知った時、そうでしか生きられない気がする。まだ人生は長いのだから、まだ、まだ平気。