マテリアル

私と本とその他色々

構成する素材

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マテリアル、と名前を付けたのは前のブログだった。

 

私は小学校の6年生の終わりの頃から何らかの形で文字を書き続けている。

最初に始めたのは絵日記だった。その絵日記は、〇〇ちゃんと話しただの、〇〇ちゃんとカラオケに行っただの、本当にその日あったことをそのまま書くだけの日記に過ぎなかった。

そんなくだらない内容は1年と少しの間毎日ただひたすらにA4のルーズリーフに書き留め続けられた。実家に残っているので、たまに読み返すと可愛いなと思ったりもするので、下らないながらに残していてよかったと思う。

時代は変わって、それはweb上に残すものになっていった。

好奇心旺盛な私は飛びつき、中学3年生の頃からブログを書き始めた。流石に小学生の時ほど勤勉ではなかったので、それらは気まぐれに思いついたときにつけることになった。

当時好きだったアイドルのことについて一生懸命に書き綴っていた。日記と言うよりほとんどの内容がアイドルの実況となる。

中学3年間が楽しいとは言い難かったというのも一因だったのかもしれない。この頃までは、そこまで文章に感情を綴るタイプでもなかったのになぁと遡りながら感じる。

 

高校生になると、アイドルの実況も落ち着いて今日あった出来事に戻っていくのだが、思春期特有の自己承認欲求との闘いが垣間見れて面白くてこの時期の記事を読むのが意外と好きだったりする。

とにかく、高校に入るまでの私は得意分野の美術に対する自信が人よりも高いところにあったのだろう。

それが、美術を得意とする人の集まりの中で「大したことがない」と言う現実を突きつけられ、それを悔しいながらも認めていくまでの過程がとても愛おしいなと思う。この時期の挫折が無ければ、恐らく私は天狗のまま、もっと後に酷い挫折をするか、一生認めなかったかもしれない。

思春期特有の屈折の仕方と良心の呵責がせめぎあう文章はとっても青臭くて面白い。

高校3年の頃、私の文体が変わる。大体今の形に近づいてくる。

目に見えるものや思ったこと、考えたことを文章に残すようになっていった。何があったのかは覚えていないが、一度この頃心療内科を受診したことがあった。

恐らく、自分の中の感受性のコップが限界を迎えて溢れかえった結果なんじゃないだろうか。

感受性の豊かな子供ですね、と通知簿に書かれることの多い子供時代だった。その感性は弱まるどころか病気のように日々強まり続けている。

 

子供の頃、30歳はもっと大人だと思っていた。

下らないことで悩んだりもせず、かっこよく働いて、配偶者もいて、なんの努力をしなくても『それら』は私の手元に舞い降りてくるものだと信じていた。

実際のところ、その当たり前は努力を要するものであった。人の本質は変わらない、私は子供の頃からずっとくだらないことで悩み、くだらないことで笑い、自分なりの幸せのかたちを探し続けている。

30歳を目前に、突然彼氏を作ろうと思った。
多分30歳を目前に気が狂ったのだ、とりあえず、自分のことを好きになってくれた人を愛せたら、私は人間として欠落している何かを埋めることが出来るのではないかと考えたのだ。

ありきたりな幸せに憧れていた。手っ取り早くアプリで手に入れてしまおうと考えたものの、当たり前だが相手は人間だった。
恋愛は、友情よりも密な人間関係であった。当然私くらいの年齢になれば将来の話が出るのだ。
日本橋の映画館でぼんやりと映画を観ながら思う。「私はこの人との未来を想像できるだろうか」。
何かを決意する勇気も気力もない、責任も未来も何も考えたくなかった。

「結婚を恐らく全く考えていないであろう趣味とノリの合う人間」次はそこに焦点を当てた。とにかく私は未来のことを考えたくなかったのだ。
その結果「友達の延長みたいな関係が良いです」とプロフィールに書いてある人間と付き合うこととなった。
決め手はなんだったんだろう、好きな俳優に似ていたとかそんなんだっけ。あとは私の恋愛観には妥当だと考えたのだ。神楽坂のイタリアンで突然の雨の中「傘持ってないでしょ、買ってくるね」と言った時に恐らくこの人は一つだけ買ってくるだろうと確信していた。
優しいとかじゃなくて手慣れてるだけだから、責任も何も負わなくて済むだろう。私にはこのくらいの人間が妥当じゃないかな。
予想通り一本の傘を見てごめんね、遠いところまで歩かせちゃってごめんねと笑った。そして、帰り際その傘を私に手渡すような優しい男ならば付き合わないでおこうと思っていた。
改札の前で別れた後、彼はその傘を持って帰った。要は自分が雨に濡れたくなくて傘が欲しいけど、それを口実に目の前の女の好感度が上げられれば最高。そのくらいの感覚だったのだろう。
最寄りから家までの帰り道、雨に濡れながら「私には妥当だな」と考えて、後日私からも付き合ってほしいとお願いをした。

彼氏が出来たからと言って、私の生活が豊かになるものではなかった。
むしろ一日10時間以上働いて、週末にライターとして文章を書き限界生活を送っていた私の時間のキャパは限界を超えていた。
それでも仮にも彼氏だから会う時間を作らねばと必死でタスクをこなすうちに疑問が生まれる。どうして彼氏に会うために私は苦しんでいるのだろう。

彼もまた所謂社畜であった。
なので恐らく女性に求めるのは癒しや家庭的なものであったらしい。散らかった部屋を見てぼんやりと思う。そんなもの私が欲しい。
挙句の果てには「手料理が食べたい」と来た。どうして、なぜ、私が。彼女と言う理由だけで?材料費は誰が持つ?

最後に会った日は、原稿が二つと動画の案件が被っており、私は疲れていた。
彼も、本当かどうかはよく知らないし、最早どうでもいいんだけど家庭の事情でバタバタしていて疲れていたのだとは思う。そんな中で会ってくれる時間を作ってくれたんだから原稿を終わらせようと頑張っていた。
おそらく疲れが顔に出やすいのでその日は放ってほしいって顔をしていたのだと思う。
そこから間もなく毎日あった連絡が途絶えた。

「お姉さん、それさぁキープ枠にされてるよ。別れたほうがいいんじゃない」
そういってくれたのはTinderで会ったナンパ師だった。意見を求めると全くの別の人生を歩んできた人は全く違う見解を出してくれる。
これを大変ありがたいと思っていた。

LINEを全消去した直後に度々くる連絡は体調が悪いというものだった。心配する返信を返しつつ、その度にもう一度全消去した。ブロックをしなかったのは、情が湧いて少し期待している自分が居たのかもしれない。自分から別れを切り出しにくかったのも信じようという自分もいたが、その傍らでそんな自分を「万が一本当に体調が悪かったとして私のせいで死なれたら嫌だな」と見ている自分が居た。

最終的に仕事の忙しさが上回り、下らないことに脳のキャパを取られていることにモヤモヤをして「別れてほしい、友達くらいの距離で良かった」と通勤中にLINEで送った。
情も希望も全て捨てて状況だけで判断した際に、まぁ普通に考えて他に女がいるんだろうなと考えて終わった。
ブロックしたら負けだと思ったので現在でもブロックをしていないが、彼からのLINEが帰ってくることがなかった。ボロクソに書いてるけど普通に人としての屈折のしかたは好きだから元気で強かに生きてくれていたら嬉しい。


目から浴びるもの

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平日夕方、私は千葉駅を走っていた。

何と言ったってバスの乗り換えまであと4分なのにバスが見つからない。こういう時、私は人に道を聞くことが難しい。性格なのだろう。

半分涙目になりながら土地勘のない千葉駅東口を全力で走る。ここまで順調だったのに。ヨドバシカメラってどこだろう。

やっとこのことでGooglemapで見つけたバス停に停まっているバスに駆け込んだ時には、全身から変な汗が止まらなかった。

間に合った、良かった。縺れそうな足で大好きな窓際の席に迷わず座る。

なんとなく選んだ席の窓からはかに道楽のカニの足が見えている。バスが発進し、その足が窓の枠組みからフェードアウトしていく様子をのんびりと眺めていた。

 

私は美しいものがとても好きである。だから、こういったことが稀にある。

人生に行き詰ったり、辛いことがあったとき、圧倒的に美しく大きなものを見て「ああ、自分の悩みごとなんてこの美しいものに比べたら大したことがないな」と思うことで精神の均衡を量ろうとしていた。

そう、最近の私は何か美しいものを見ようとしていた。そして行き着いたのが蛍を見ることだった。生まれも育ちも中途半端な田舎だったので蛍を目にしたことなどなかった。非日常を目に一杯に浴びれば変わるだろうか。

風もない、気温も暖かい、雨も降らないのが今週は今日だけであることだけに気が付いて一眼を抱えて飛びだしたのだった。

 

バスでの道中は千葉の新都心が信じられないような田舎町に変わっていく様子が楽しかった。瓦の色を見ては赤色か黒色か数えて遊んでいた。

そういえば田植えをして1カ月半くらいが経っていたのだろう、田園は美しい新緑に満ちていた。ずっとずっと都会で暮らしていると、こういった姿を新鮮だとか美しいなと思う。

 

目的のバスの停留所は思った以上に何もなくて驚いた。道の駅以外何もないのだ。

本当に、ここは観光に来る場所ではなく、中長距離トラック運転手さんの休憩所やそういった目的の場所なのだろう。

ほたるの里までは私の遅い足で20分弱だった。

ついたころにはまだかなり明るかったので、唯一存在したミニストップで買ったおにぎりを頬張りながら三脚を組み立てたりしながら時間をつぶした。

19:00過ぎ、日が落ち始めたので蛍の住処へと移動した。

忘れられがちだが、蛍も虫なので虫よけの類を一切身に着けることが出来ない。何て無防備なんだと思いつつ、やはり寄ってくる蚊を手でぶんぶんと払う。

しかし10分ほど経つともう蚊にたかられることも慣れてしまって避けることも面倒になったので自然に任せることにした。ハットに長袖ブルゾン、デニム、靴下、スニーカーと言う完全防備の私だが首元がノーマークだったので次々とやられる。だからみんなタオル持ってきてるんだ。次は持って来よう。

 

蛍の名所として有名な某所だが、千葉県の田舎まで一人で来るバイタリティー溢れる人間は少ないらしく、周りが話しながら待っているのを「話し相手がいないなぁ」と思いながら一人ぽつんと過ごしていた。

一眼はミラーレスとそうじゃない方(何て呼ぶのが正しいのかよく分からない)を持っているが、今日はちゃんとそうじゃない方を持ってきた。三脚もある、準備はすべて整っているのにこの満たされない感じは何なんだろう。

 

19時半、「あ、光った」と女性の声でそっと顔を上げると、目の前の木の先端が黄色く光っていた。待ちに待った蛍だった。

無我夢中でシャッターを切る。当たり前の話だが、久しぶりにカメラを触った私に上手く蛍が撮れるわけはなかった。

ひとしきりシャッターを切ったあと気がついたときにはあたり一面にふわふわと黄色い光が漂っていた。明かりもない真っ暗な空間に浮く光、次第に自分の足元が浮く奇妙な感覚に襲われる。

当たり前のことだがそれらはイルミネーションでも、光でも、夏の風物詩でもなく、紛れもなく命が漂う姿だった。今この瞬間を彩る生命。

圧巻だった、私はきっと今日この光景を見るために遥々バスに乗ってきたのだろう。たった一人、何時間もバスに乗って。

とびっきり綺麗なものをみた瞬間、嫌なことや記憶が蓋をされると感じる。たとえ一時的なものであったとしても、私はこの瞬間の幸福感や感動で全ての記憶に蓋をする。それが私の自分なりの自分への愛情表現だ。

 

20時すぎ、余韻に浸ることもなく私は荷物をまとめて蛍の里を去った。泊まる場所もなく、終バスを逃してどうにかなるような場所ではなかったからだ。

後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、変わらぬ姿でふわふわと黄色い光が漂っていた。

 

無事に乗り込んだバスの車窓は暗くてほとんど何も見えなかった。遠巻きにぼんやりと移り変わる風景をぼんやり眺めながら来年も来れたらいいななんてことを考える。

体が重い、きっと今日はたくさん歩いたからだ。心地よい倦怠感の中で膝に抱えたカメラを抱きしめる。今日の一瞬を、私は忘れたくない。多分忘れない。

 

千葉駅、23時すぎ、静かな高揚感。きっとこれは永遠。

過去の自分と交換日記をしてみよう

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関係ないけど2017年だかに行った九フンの写真。
上京する少し前に書いた文章が出てきたのでぺたり。

10年以上前なんだ、高校三年生の冬。てか私こんなに明るかったんだ。

 

▼2020.12.30

地元に大きな公園があって、その中にお城があります。
天守閣は無く小さな小さなお城ですが、
私はそこの城壁にある四角やら丸やら三角の窓から眺める地元の風景が幼い頃から大好きでした。

その公園を囲む堀には噴水が毎日水を流していて、
白鳥や鷺、色々な鳥が夜になると集まってくるんですね。可愛い。

春になると桜が咲いて公園内の池の周りは花見客でいっぱい。
鳩やら雀も寄ってきて、それはそれは大宴会。

夏は新緑、秋は紅葉、冬は今まで隠れていて見えることの無かった繊細な枝を眺め
ぼーっと過ごしたその公園が大好きなのです。

好きな遊びはスワンボートと鯉の餌やり。
四季折々の風景に見守られながら18年間過ごしてきましたが、
どうやら、その公園を訪れるのも数えるほどになってしまったようです。

漁師町としては有名で、鮮魚の商店街がある地元。
海岸沿いを我が物顔で歩く猫、おばちゃん達の井戸端会議。

「あー私払うからええってええって」
「いやいや、そんなわけにはいかへんがな」
そんなこと言いながら、おばちゃん達財布だしてへんやん!
きっと最後はワリカンになるんでしょう。

寂れた色も多いけれど、緑と海の調和、そして人の面白さは何時見ても素晴らしいものでした。



話は変わり、東京に部屋探しに行きました。とにかく人が多い。
のんびりとした町で育った私にはそれこそ悪夢。
こんな所で生きていけるのだろうか、いや生きていくしかないんだろうな。
そんなこと考えながら、合格祝いに買ってもらったばかりの赤いキャリーバックをコロコロと転がす。
きょろきょろと辺りを見渡しながらキャリーバックを引く様は、まるで田舎者。
どうもすいませんでしたー!と言った所です。

最初に行った所は都心ほどでは無かったけれどやっぱり人が多かった。
可愛いお店が沢山あって退屈はしなさそうだったけれど。
うーん、住むって考えたらちょっとなぁ…。

何より緑が無い緑が!
なんでわざわざ公園を目指さなきゃ見にいけないのさ!
街の中に自然と組み込まれてる、なんてことが無いのかな寂しい。
綺麗なんだけど何か違う。でも東京なんてこんなもんか。
ゴロゴロと大音を立てて転がるバッグ、
考え事をするとやっぱり人とぶつかりそうになる。駄目だこりゃ。向いてない。

気を取り直し、次の日向かった場所は各駅停車しか止まらないような全く知られてないような土地。
どうせ東京なんて、と思いつつ電車から降りてあららびっくり。人がいない。
流石マイナー駅だなぁと思いつつ駅の外に出ると、まぁ人がいないことこの上なし。
本当にここは東京なのかと思いつつ赤いキャリーバックをコロコロ転がす。
不思議な事に人とぶつからない。なんだこれ。
思わず駅の名前を確認する。やっぱりトーキョーだよなぁ…。

親切なことに、その物件を管理している方が迎えに来て下さって迷子にならずにすみました。
マンションの前にはどっかで見たような大きな松。そして沢山の木々。
私のテンションはMAX。

「あびゃぁぁぁぁこれ松ですよね!ぴゃぁぁぁぁ鳥とまってるぅぅぅかぁいいいい」
電波丸出し。

話を聞いたところ、直ぐ側に大きな公園もあり、環境は抜群だそうです。人もいないし。
松の隣には桜が数本植えられていて、春には満開の花を咲かせるそうな。
ちらちらと過ぎる地元の風景。ここなら住めるかな?住めるかな!
管理の方とも意気投合し、春からはそこに住むことになりました。案外すんなり決まった。


地元を離れることになっても、多分あそこなら大丈夫だと思った。
どうせ引きこもりニートですし、人見知りですし、人が多い場所は大の苦手です。
何より緑があるのはいいよね。毎日変わらないビルばっかり見てても飽きちゃう。
ちょっとずつ変化する景色を間違い探しのように見るのが趣味だったのでよかったー。

全く、悪趣味な野郎だな。

あとはもう春を待つだけ。それもなんだかじれったい。
早く来て欲しいよな、まだ馬鹿みたいなことをしたいような。
暇があると考え事をしてしまう気質なのか知りませんが、一人でいると憂鬱で退屈。
まだまだやりたいことが沢山あるよ!高校生活が足りないよ。



年越しはのんびり田舎でする予定です。
お年玉もらうぞー!なんか目的が違う!

 

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うわ~~~~私若い!!!!若くてびっくり!!!!

そのまま10年前の自分に向けて交換日記を書いてみたいと思います。

 

2021年から2010年の私へ

お元気ですか?きっと今頃はあと三か月後の一人暮らしへ向けて色々と胸を躍らせているのではないのかなと思います。

合格祝いに買ってもらった赤いキャリーバッグは残念ながらすぐに壊れてしまいます。でも大丈夫です、また別に買ってもらった小さめのキャリーバッグをダサいなーと思いながらも今でも楽しく使ってます。中国にも台湾にも持っていきました。完璧に使いこなしてます。

 

明石城、素敵なところですよね。私も大好きです。

でも、もう5年くらい行っていない気がします。実家を離れて長いこと生活するって意外とそういうもんで、今まで当たり前のように行けていた場所が行けなくなったり、当たり前のように友達だった人と縁が切れたり、変わらないものって無いのだなぁって実感する毎日です。

そう、私の高校生活は、その公園と海岸と、素敵な友人のおかげで楽しいものでしたね。安心してください。素敵な友人とは卒業後もクラスTシャツを作ってドッジボールをしたりする仲です。そこはあんまり変わりませんでした。

 

高校卒業して東京の内見、夜行バスで一人で行ったんだったね。

笹塚のビジネスホテルで一泊。高校生が信じられないよね。でも、怖いより楽しみが勝っていたのかな?

今考えたら恐ろしいことをしたって両親も後悔してるから大丈夫だよ。関心がなかったんじゃなくて意外とタフだったから一人で勝手に家を決めるだろうって安心してたんだって。

窓から松が見えて、春には桜が咲いて、近くには公園があって。そんな理由で決めた家ではたくさん出会いがあるよ。でも最初は金髪で緑のカラコンを入れるものだからギャルに囲まれてすっごく困ったことになるからね。

でも、そのあとはかけがえのない友達が何人も出来るから安心してください。

遊びに来た友達に「小学校の廊下より狭い」と言われた部屋、そこで過ごした4年間は同居人のことでトラブルが起こって怒ったりわらったりもしたけれど、あなたにとって騒々しく楽しい日々になると思います。

あ、出ていくときの片付けは本当に覚悟しておいてください。服飾学生の荷物はとんでもないので一人で何日もかけて死にかけながら段ボールに詰めて、足りなかったのでさらに段ボールを足した気がします。

 

学校は変な人がたくさんいて、自分の天井を知るいい機会になります。

きっと高校の時自分よりも遥かに絵の上手い人たちを見てすごく悲しい思いをしたと思うけれど、それは専門に進んでも変わらないです。

でも、才能が無くても好きなことに携わる方法はいくらでもあるから大丈夫。その方法を考えられなくなったときは手を休めて考えてあげればいいよ。

何者になれなかったとしても、あなたは唯一のあなた自身です。気を落とさないでね。

 

バカなことはね、たくさんしておいた方がいいと思うよ。

最近私はずっと気がめいっていてバカなことをしていなかったので、もっとしていたほうがよかったなと反省している。だからこれからもっと馬鹿なことたくさんやろうと思ってる。

 

やりたいことがたくさんあるってすっごく素敵だね。見習おう。

10年後のあなたは多分あなたが思っている以上に寂れていて、みっともないしがないOLでしかないんだけど、もう少し頑張ってみるよ。元気出た、ありがとうね。

東京生活、きっと色々あるけど楽しんでいってね。

きっとその感性は自分でしんどいなぁと思うことが多いかもしれないけれど、私はとっても好きだから大事に大事に取っておいてね。

 

割と占いは信じるほう

 

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五月も下旬、精神の回復と共に再開したinstagramで素敵なブラウスを発見した。

花や草の大柄模様が好きな私にとってはもう奇跡のような出会い。

しかも二年ほど前に行った「パーソナルカラー診断で当たり色って言われたグリーン」

某百貨店さんのinstagram、それはかなり相当な覚悟はしていた。それでも検索してお値段を見てびっくり。これは生活が出来ない。でも、絶対に素敵だから袖を通してみたい。

ああ、袖を通すだけ、袖を通そう。

意志の強いのだか弱いのだか分からない私は私用で原宿まで出かけたそのピンヒールで新宿まで向かった。

原宿から代々木新宿の景色は変わっていないようで変わっている部分があった。代々木公園の緑は変わらないまま、道路端のカフェやブティックが潰れていたり。街中にチープな看板のPCR検査施設が立っていたり。

元々ご機嫌にピンヒールで散歩をするような性格でもないので、このあたりを散歩したことが2度か3度しかないのだけれど、なんとなく街を取り巻く雰囲気が変わったのかなという事だけは理解した。

でも、目的のしっかりしている私の足はただひたすらに真っすぐに百貨店を目指した。

久々の百貨店は胸が躍った、一階には好きなブランドの気になっていたピアス。でも見たら多分欲しくなるから綺麗に素通りをして、二階のお目当ての品へ。そして試着。

ああもうダメこれ可愛い…。

でもこれを買ったら破産してしまう、でもメルカリの売掛金が3万円ある。あと1万円以上売れたら買っていいかな?どうしよう、とりあえず頭冷やしたいです。

意志の弱い私は弱弱しく呟く。

「お取り置きってできますか?」

 

その後、私は毎日頭の半分をそのブラウスにキャパシティーを持っていかれながら生活を行うこととなる。

そんな私に、「会社で配られる生命保険屋さんの定期的な占い」がやってくる。

なんとなく元気が出るのでいつも参考がてらに読むのだが、今回は爆弾のような回であった。

『身に着けるものや食べるものにお金をかけましょう。きっといい仕事が舞い込むでしょう』

私はその場ですぐに頭を抱えて叫ぶ、

「今ね、私百貨店でお取り置きしてるんです、とんでもなく高いブラウス。生活不相応の。買えって事なの?エスパー?」

そして帰りの電車で購入しますとの連絡を入れ、帰って大量にメルカリに服を出品した。

 

何とか病院受診の日までお取り置きを延長していただき(ありがとうございました)、6月初旬なんと凡そのお金を断捨離することで作り現金で購入した。

そして、そのブラウスにはショートカットが似合うと閃いてリモートワークを17時に切り上げて即切りにいった。切った後は本当に爽快だった。「髪の毛に悪い気が停滞すると聞いた」こともある。あながち間違っていないんじゃないかといつも思う。

そんなこんなで苦労したり悩んだり思い入れのある一着なので本当に家に帰った瞬間にファッションショーが始まった。ここ最近で一番幸せだと思った。

何か美味しいものを食べたり、何か綺麗なものを見るのも幸せだけれど、やっぱり私の幸せはここにある。美しい服が好き。

 

さて、一連のエピソードからお判りいただけるだろうか。私は割と占いを信じるタイプの人間だったりする。

なので「パーソナルカラー診断で当たり色と言われたグリーン」は大好きだし、「占いに背中を押されて購入する」ハッピー野郎である。

 

だからこそ、ここぞという時はいつも神社にお参りに行く。

そして、悩みごとを上手く人に話せるタイプでもないのでそういう時も神社にお参りに行く。(だから昔っからブログ書いてんだけど)

19時過ぎ、仕事終わりの私は近所の小さな小さな龍神様に来ていた。お参りと言うのは自分の住むところの近くに神社に小まめに通ってお話しを聞いてもらうことが一番いいらしい。

私の住むところは昔塩産業が有名だったらしく龍神様が多くまつられている。祠や神社がそこら中にあるので、私はよく5円玉をもってお参りに行くのだが、龍神様には塩を備えるのが正しいらしく、また、小さな祠や神社なので賽銭箱などなく、石碑の上にぽつんと置いて、そっと手を合わせて願うばかりであった。

私の五円玉だけがぽつんと置いてあるのでいつも申し訳ない気分になる。

 

薄暗い神社の鳥居をくぐり、先日手に入れた一番お気に入りのブラウスを着ていつものように五円玉を石碑に置こうとしたら先客がいた。

どうやら、私のほかに縋るような気持ちで来ている人がいるのかもしれない。そりゃそうだ。こんな世の中なんだから。

私は誰かの願いの隣にそっと五円玉を並べ、二度礼をし、パンッパンッと大きく拍手をし手を合わせた。

 

明日、両親の1度目のワクチン接種である。

正直なところとっても心配なのでこうやって神社に来ていた。思い返せば母の倒れた年から私は初詣に行っても願うことはいつも決まっている。

「自分を含む身の回りの人か健康で笑って過ごせて誰一人欠けませんように」

その願いは幸い、現在までずっと叶えられている。案外人間は大きなことを望むより小さな平穏を願ったほうがいいものなのかもしれない。

 

今日も似たようなものだった。とにかく私は会いたいと願っていた。

合わせた手のひらに雫が落ちているのを見て自分が泣いていることに気が付いた。もしかしたら前人の五円玉もこんな感じだったんだろうか。だったら龍神様もびっくりだよね。

暫く手を合わせた後、手の甲で涙をぬぐって頭を下げて神社を後にした。

柄にもなく泣いたなぁと思いながら歩いていたら涙が止まらなくなった。いつもと違う住宅街の中、斜め上を向いて歩いた。

 

とりあえず、帰って晩御飯を食べながら私は元気ですと伝えたいと思った。

迷ったけど、髪を切ったこととこの間電話で話していた一目ぼれのブラウスを買ったよ。ってことを伝えたくて自分で自分で撮ったいわゆる自撮りを恥ずかしながら送ってみた。

 

「可愛くなったねぇ。髪の毛短いほうがいいよ。ブラウスも緑って聞いてて派手かなって思ったけど上品でいいね。似合ってるよ」

 

送ってよかったなと心から思った。

何もかもうまくいきますように、明日もその時間にお参りに行こう。

適応障害と私

 

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2020年年始、神戸空港で両親に見送られて東京に戻った。

また、ゴールデンウィークくらいには帰れるかな、遅くても絶対お盆には帰るかなくらいの気持ちだった。

 

私は2011年、18歳の頃から東京で一人暮らしをしている。

好奇心旺盛な性格もあって震災後の余震があろうとも「たのしい」「おもしろい」「刺激的」が勝って東京での初めての一人暮らしを満喫していた。

東京に出てきて実感したのは、私は極めて凡人であるという事であった。芸術全般が人よりも少し出来ると慢心していたが、それも東京と言う土地の中では個性にすらならなかった。

それでも凡人は凡人ながらに日々変わりゆく景色を楽しんでいた。

都会のネオン、遅くまで動き続ける電車、新宿のガチャガチャした街並みを歩いているとき、何者でもない私はその瞬間だけ何者かになれた気がした。

 

状況が変わったのが21歳の頃、母が病気になった。

当たり前だけど、私が年を重ねるのと同時に母も年を取っていくのだとその時初めて実感した。たった3年間だ、その間に人はこんなに老いるのか。

幸い命に別状があるものではなかったが、検査入院の日に読んだドストエフスキーの「罪と罰」の文字を追うごとに文字が脳を通り抜けていくあの奇妙な感覚を忘れることはないことが無いと思う。

 

そんな背景もあり、私は真面目に就職活動を行い、私の割には真面目に働いて、なるべく実家に帰るようにしていた。

そして2020年年始の神戸空港に至る。

2019年末にパニック障害で倒れたこともあり、実家で完全に元気な姿を見せられなかったことを自分の中で悔いていた。

金属探知機を通り抜け、振り返るとまだ両親がいた。

搭乗口に切り取られた長方形の景色の向こう。手を振る両親を見て申し訳なくて情けなくて泣きそうになりながら、ぐっとこらえて東京へと戻った。次会ったときは元気な姿を見せよう。

ゴールデンウィークには、お盆には。

 

そんな折にコロナが流行して生活は一変した。

私がまず考えたのは自分自身のことでも何でもなかった、母だ。基礎疾患を持ち、病弱な母、患ってしまったらひとたまりもない、冗談じゃない。

年末に帰ったとき、私は発作を起こしたり辛い姿を見せてしまった、元気な姿を見せていないのに冗談じゃない。

父も人関わる仕事をしていてリスクが低いわけでは無い。もう還暦もとっくの昔に越えている。喉の奥が締め付けられるような感覚だった。どうしてもっとうまくやれなかったんだろう。どうして笑って楽しそうにふるまう事すら出来なかったんだろう。

会いたかった。2020年ゴールデンウィーク時点ではまだ天文学数字だった。気にせず帰ってやろうかとも思った。でも、万が一自分が持ち帰って両親に何かあったら私は一生自分を責めるだろう。

いいや、私はこの先生きていくことが自信がない。だから私はここを動けない、動いてはいけない。

 

世界が平和であることが一番であることはわかっている。

でも、それを分かった上で自分の両親の無事を願わずにいられない。自分はどうでもいい、両親が無事ならそれでいい。

 

そのあと私生活で色々と起こったような気がするけれど、正直それはあまり覚えていない。

恐らく自分にとっては「事務手続き」であって何かの理論や法律や決まりに基づいて何かを行う事なのでそれほど体力を要するものでもなかった。

だからこそ、綺麗に片付いてしまえば、それをさほど気にすることもなかった。

 

ただ、神戸と東京で分断された時間は違った。

終わりも見えず、ただひたすらにどうなるかもわからないことに怯える毎日は自分の精神に悪影響を及ぼした。パニック障害の発作の数は増え、夜中に自分の叫び声で起きる。

願うような気持ちで週に一回実家に長い時間電話をかける。何を話すわけでもなく、ただ電話をつないでいるだけ。テレビ電話と言う手段もあったが、うまく食べることが出来ずその頃の体重が信じられないような数字で親に心配をかけることは明白だったのであえて繋がなかった。

 

毎週、毎週、願うような気持で週末にLINEの通話ボタンを押した。兵庫で何かが起こりようものなら私は死ぬんじゃないかと思った。

 

そんなストレスからついに絵を描くことが難しくなった。

こういうことは学生時代にもあったので「またか」と言う感覚だったのだけど、社会人になって起こすことが初めてで、しかも治る目途が立たないのでとても焦った。焦る気持ちが余計に気持ちを拗らせてしまった。

もう立てない、歩けない、何もしたくない、ただ親に会いたいだけなのに。

2020年冬、京葉線ホームで28歳の女がめいめいと泣き崩れる。震える手で頓服を飲みながら限界だなと思った。

 

パニック障害でかかっている医者に診断書を出してもらうことになった。

特に何の病気とはその文面に書かれることはなかったが、説明を聞く限り私はどうやら「適応障害」だった。何に適応できなかったんだろう。コロナ社会だろうか、とくだらないことを考えながら帰りの電車に乗った。

 

でも、私はその診断書を出すことが出来なかった。勇気がなかったのだ。

みんな同じ境遇で耐えてるのになぜ私だけそんなことが許されるのだろうか。何て言われるだろうと思うと怖かった。

 

そんなことを考えてるうちに3か月ほどたった。

その間も私は願うような気持ちでLINEの通話ボタンを押し、日々の感染者数に首を絞められるような気持ちでいた。ただ元気な姿を親に見せたいだけなのに、どうして上手くいかないんだろう。

 

12月、久々に友人と会う用事があり出かけたら湯呑を持っただけで手が痙攣を起こした。その場では普通をふるまっていたが、帰りの電車で足の痙攣が止まらなかった。

歩くことが出来ない、おかしいとおもって心拍数を測ると180ある。新年循環器内科にかかり、ホルター心電図を付けるとストレスで心拍数がえげつないことになってることが発覚した。すぐに心拍数を下げる薬を飲みながら生活することになった。

ついに精神の問題を超えた。にっちもさっちも行かなくなったので仕方なく二枚目の診断書を貰った。

そしてその診断書は勇気を出して上長に提出することとなった。こうして私の適応障害は会社として公になった。

 

口数も多いほうではなく、「話したところでどうなるんだろう」と自己完結する癖があるので周りの人にとってブラックボックスなのだろうと思う。正体不明の箱。

自分が正体不明の箱である自覚はあるのだが、私は箱を開ける上手な方法を知らないのでずっとずっとブラックボックス。そんなブラックボックスから吐き捨てられた診断書、どう思われただろう。

 

適応障害と名前の付いた私は、在宅を中心に難しくなったクリエイティブ業務をほかの方にお任せすることになった。

ほぼ脳死の面談の中で印象的だった言葉がある「できない部分の仕事をほかの人に任せることになるけれどそれでもいいのか」

悔しかった。苦労して掴んだものをいいですよと言えようか。私は「その質問に対して私はなんて答えるのが正解ですか」と質問を質問で返した。

もう訳がわからなかった。申し訳ない、情けない。いろんな感情が波のように押し寄せてきてそのあとの記憶はない。帰りの電車の中でただ親に会いたいだけなのにどうしてこうなったんだろうと考えていた。

 

診断書の提出後、焦った私は「本当に早く良くしたいのでお薬も変えたいです」と、先生にまで隠していた症状を全て告白し、薬を細かく変更することにした。

焦りからなのか自分で思い当たる症状を片っ端から調べ、片っ端から思い当たるサプリメントや漢方を飲んだ。高くついたが、いくつかが自分の精神にいい影響をもたらしたらしく、4月に入って人と話したり、テレビや映画を見たり、旅行に行けるまで回復をした。

旅行に行った写真を私は両親にリアルタイムで送った。

両親は私の元気そうな姿を喜んだ。久々に元気そうな姿を見せれたことで自分自身に対しても少し自信が付いた。

5月中旬以降はかなりの回復を見せた。一度自分の手を離れたクリエイティブ精神が少しずつだけど戻ってきた。嬉しかった、もうしばらくの間仕事と言う仕事が出来ていなかったような気がしていたからだ。

 

5月28日、父の65歳の誕生日の次の日、少し自分に自信のついた私は「テレビ電話をしようか」と実家に提案をし行うことになった。

私は、新宿のセレクトショップで買ったお気に入りのとびっきり明るいオレンジ色のニットを着てパソコンの前に座った。(このニットについては、とっても可愛いニットを買ったから今度帰ったときに見てほしいと母親に話していた)

 

1年半越しに実家の景色が映る。父も母も思ったよりも元気そうで、そして思ったよりも老けていなくって、私はとても安心した。老け込んでしまったのは私のほうなのかもしれない。

父は相変わらず私の父とは思えないほど明るい人で、届いたばかりのワクチン接種券を画面越しに自慢げに見せてくれた。

「よかったね、本当によかったね」

母は相変わらず物言いはおっとりとしている人だった。そして、私が母を心配しているのと同じくらい、私のことを心配していた。大丈夫だよ、食べてるよ。最近は頑張ってよくなろうと思って自炊してるの。冷凍のロールキャベツと野菜を煮てコンソメスープ作るだけなんだけど美味しいんだよ。

 

ひとしきり喋った後、またテレビ電話しようねと電話を切って、ボロボロと泣いた。

通話中は泣くものかと思っていた。本当によかった、終わりの見えない、答えの見えない暗い道を歩き続けるのが怖かった。大事なものを失うかもしれない、元気な姿を全然見せれてなかったことをずっと悔やんでいた。

それから両親がワクチンの接種日が決まった後も、ふと野菜を切っている瞬間などに涙が溢れる。

「当たり前の毎日は、未来永劫当たり前に続くわけでは無い」

 

コロナ社会は、私に適応障害と言う深い傷を残した。

多分、色々な側面でそれは消えることはないだろうし、ずっと考え続けるだろうと思う。元のように絵を描いたり物を考えたりすることが出来ないかもしれない。

でも、自分の性格的にいつかはなっていたものが、ちょうど今なったのではないだろうかと思う。

まだまだ油断が出来る状況でもないが、7月には両親の接種が完了するので、それが無事に終わることを願いながら、次に帰るころの想像をしてみるのもいいのかもしれない。こうやって、明確にイメージが出来るようになったことは、トンネルを抜けたような気分で嬉しい。

神戸空港だろうか、今年は明るい色の服をたくさん買ったの。見てほしいな。

何を着て帰ろう。泣き崩れるだろうけれど、笑顔で元気に会えるようにしよう。

 

「当たり前に続くわけでは無いからこそ、その瞬間を一番愛おしみ生きていきたい」

 

追記

母が倒れた時の日記を見つけたので。当時21歳

 

ツクツクボウシの鳴き声が頭の上から降ってくる、この声を聞く度に夏の終りが来たと思う。
夏の終りに、京都へ行った。予てから行きたいと思っていた西芳寺を中心に、いつもは行かないであろう場所を周った。

8月半ばに西芳寺へ拝観予約の葉書を出した。
その数日後、その拝観の予定日に母の手術が決まった。手術と言っても精密検査の為に肝臓の組織の一部を取る簡単なものではあったが、入院と膨大な量の書類を必要とする手術であることには変わりがなかった。
行かないでおこう、返信が帰ってきたら電話しよう。返信はがきが帰ってきたのはその次の日で、先方の都合により私が希望を出した次の日へと変更されていた。
「いいよ、行っておいで、そんなに難しい手術じゃないし。行きたかったんでしょう」
そして付け加えるように、これは皮肉でもなんでもないから、と言って笑われた。勘ぐり深い私の性格を良く把握している母の先手であった。私も笑った。

一週間ほど悩み、手術後の母の様子を見て考えようと思った。
手術当日、母を送り出し、家の仕事を一通り済ませから父の車で病院に向かった。病院に着いて、なんだとても快適な部屋じゃないのと他愛ない話をして、手術の時間を迎えた。風邪も引いたことがないような母のベッドに横たわる姿というのは違和感を感じるのと同時に不安を煽った。
本を読んで待った。ドストエフスキー罪と罰だった。一時間程で終わり、思ったよりも全然元気そうじゃないと憎まれ口を叩きながら内心ホッとした。
「明日どうすんの、行ってきなさいよ、別にいいから。今になって断るのも先様に失礼よ」
顔色も良い、母のそんな言葉に後押しをされ、始発のバスに乗り込み京都へ向かったのだった。

電車の窓から見える景色はいつも変わらないと思う、JRの少し向こうを平行に走る阪急鉄道の臙脂色は此処にしかない色だといつも窓際に頬杖を付きながらうっとりとする。
西芳寺へ付き、宗教行事に参加した後、護摩に願い事を書くように言われた。家内安全と書いた。本当は世界平和ぐらい書いてやりたいと思ったが、平和の裏には誰かが泣くことくらい20年そこら生きていれば知っている。
120種類の苔の織りなす庭園は正しく圧巻だった。
小さいものも力を合わせれば大きな力となる、コツコツと積み重ねることが大切だ。小さいころ絵本で読んだよな常識的なものを今目の前に具現化されたような、そんな気分だった。
バス停で隣に座ったフランス人の夫婦は先ほど庭園でも見かけた。ライカのデジカメを提げている。生活も豊かなのだろう。

嵐山を歩き、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を拝んだ。薄暗い部屋に陽炎のように浮かび上がる泣き弥勒がゆらゆらとしていた。私の頭から足の先までが共鳴するかのようにゆらゆらとしていた。

午後からは気の置けない友人と待ち合わせて伏見稲荷大社へ参った。
私以上に彼女がショックを受けていた。なんだか申し訳なくなって、大したこと無いの、今は母も私も全然平気と笑いかけたけれど、
「大丈夫な訳がないでしょう、なんで一人で抱え込んだの、なんで話してくれなかったの」と怒られた。やってしまった、と私も内心狼狽えた。何度同じことを繰り返すのだろう、何度同じことをすれば私は学習をするのだろう。
伏見稲荷大社の急な階段に足を痛めながら己の運動不足を嘆いたり、上がった息を整える為に立ち止まると藪蚊の群れに遭遇して泣く泣く歩くことを余儀なくされたり、とにかく久しぶりに沢山笑った。
そう言えば最後にこんなに笑ったのは何時だっただろう。夏休みに入る少し前だっただろうか。帰りの電車は行きに見た阪急電鉄だった。山の傾斜には小さな家の明かりが見える。時刻はもう9時を過ぎようとしていた。

母に写真を見せた、生まれも育ちもジャングルのような山で、生花の師範を取得するくらいの自然好きだ。いいね、お母さんも元気になったら行こうかしらと言っていた。
後何回、この季節をこうやって迎えることが出来るのだろう。
母の大切に育てているミカンの木は母が生きているうちに実をつけるだろうか。この木に花が咲くことが楽しみだと言っていた。この木に花が咲くまで生きていてくれるだろうか。
それならいっそ咲かなくてもいい。短絡的な自分の思考をあざ笑うように、夏の終わりが来た。残暑厳しい雨の日、私は東京へ戻った。

夏に読んだ本は20冊以上に上った。それは私が現実から目を背けた数だった。

ベートーベンのソナタテンペスト』は母の好きな一曲だった。テンペストの意味は嵐、シェイクスピアの戯曲に由来するものだ。
弾いたのは高校三年の時、ピアノを辞める前に最後に弾いた曲がこれだ。
小さい頃、人差し指一本から始めたピアノは、長い時間をかけて人に聴かせることが出来るまでになった。
ショパン好きの私がベートーベンの楽譜を手にすることは珍しいことだった。母がこんな曲貴方が弾けたらいいのにと皮肉ったのがきっかけだった。
「もう弾きたくない、何も聴きたくない、頭が痛い」
そうやって泣き喚いた時、なら辞めてしまえば?と母は言う。
「辞めない、嫌だ」泣きながらピアノに向かうことが恐らく分かっていたのだろう。もしかしたらこの時もそうだったのかもしれない。
「私、あなたのピアノを聴くの好きよ」テンペストを聴いた母の発した一言だった。

何を思い立ったか東京へ戻って直ぐにピアノ教室へ電話した。再び始めようと思った。

繰り返す日々の中で学校が始まった。
人と会いたくないと思いながらも、人と会うと楽しい。そう思う。嘘偽りなく、人間は大好きなのだ。
夏休みの出来事をクラスメイトに心配された。
泣くかと思った、ううん泣かない、意外と元気そうで安心した、うんありがとう元気、顔が死んでる、そう?一時期に比べたら全然平気。

平気。そう、平気なんだ。こんなことくらいどうってことない。
人に頼るとき、人に優しくされるとき、私は私が弱くなるような気がする。人に甘えることを知った時、そうでしか生きられない気がする。まだ人生は長いのだから、まだ、まだ平気。

僕の靴音

僕の靴音/堂本剛

ぼくの靴音

一時期KinKi Kidsさんの大ファンだった頃があった。

そもそも面食い王子系大好き中学生だったので、どちらかと言うと光一さんにの容姿にキャッキャいってたのだが、色々と精神的に辛かった時期に、当時ENDLICHERI☆ENDLICHERIとして活動していた剛さんの言葉や、彼の作る歌詞に救われて大ファンになったような気がする。

 

高校生のころは、大阪ドーム公演とか行ったりしたな。親に黙って勝手に薬師寺ライブとかも行ったかな。(奈良から兵庫の田舎まで帰ったので遅くなって親に怒られた)

 

そんな時期に読んだのがこの1冊だった。 

パニック障害過換気症候群についても綴られていて体験のない私にでも大変なんだろうなあってことが伝わってきた。

なんだろう、影響受けすぎて一時期の原動力は「堂本剛ならきっとこう考えて耐えるだろう」だった気がする。

 

もはや崇拝しているというくらいで、私は大人になったら剛さんのようになりたいなと思ってた。絵が書けたから芸術で似た境遇のだれかを救いたかった。でも、私には人の心のを動かす程のクリエイティブ能力は無かった。それに気がついたのが高校2年くらい。筆を折ろうと思った。そして折った。

絵が上手いよね、かけるよね。だからなんなんだろう。

逃げるように服飾の世界に入った。

下宿先にテレビがないのでKinKi Kidsから離れた。卒業する頃にはKinKi Kidsの新曲も分からないくらい遠く離れてしまっていた。

 

さて、社会人5年目、私はパニック障害になってしまった。

唐突ですね、経緯を説明します。

そもそも夏くらいから、社内でを歩くと凄まじい目眩が止まらずら貧血だなぁと鉄分補給してもよくならず、どしたんかなと思ってたら手足の震えとまらず、頭の付け根もいた過ぎて寝込んだりとか。

で、先日ついに会社のビルで酷い発作で救急搬送。搬送されつつ「私死ぬんやろな」と思ってたんですが、お医者さんの診断としては「メンタル的なものが大きいでしょう。血液検査とかは問題ないよ」とのこと。

次の日、不眠やらでかかっていたかかりつけの心療内科のお医者さんにお話しして、現在(1ヶ月くらいたったかな?)は発作が出にくくなりました。

それまでも会議とかで急に動悸がしたり音が遠くなったり手足が震えたりしていたので納得(当時は分からなかったけどそういった発作が周りから分からないようにあえて遠い席にいたりした)

病院にかかってから発作出にくくなるまでは、発作がある度にトイレに駆け込んで頓服を飲んで、普通に席に戻る毎日。

 剛さん崇拝してたおかげでめちゃくちゃ知識はあるので、パニック障害を告白してくれた芸能人の皆さんには本当に感謝してる。

 

話は変わりますが、骨格系の病気も抱えつつ満員電車に乗ると肩や腰が痛い時に軽い発作(当時は発作だとは知らなかった)を起こして立つのも辛い時期があったのですが、優先席に座るとあえて目の前に立って来る方もいました。ヘルプマーク貰った方がいいなとその時痛感した。

目には見えない形でも、病気を抱えてる人もいるんですよ、誤解解けるといいよね。

 

何が言いたいんだっけ。

とりあえずみんな生きやすい世界になるといいよね。

悔しかったり辛かったり心折れることがあっても生きていれば多分どうにかなるんでしょう。不思議な話なんだけど。

 

って下書きを2019年初めくらいに書いてるのを見つけました。

なかなかにいい文章だなと思ったので残しておきます

幸せ

幸せってなんだろう。

 

恐らくテレビでも小説でも何千、いや何万回も使われているこのフレーズについて真剣に考えている。

 

学生時代、YUKIにハマっていた頃、私にとっての幸せは二人のストーリーみたいな何気ない日常だった。

待ち合わせはローソンで、おにぎりを二つ買って家。

何気ない幸せこそ意外と難しいと気がついたのが社会人になってから。

決まった時間に起きて、決まった時間にご飯を食べて、決まった時間に寝る。

同じことを繰り返すのって意外と難しい。

 

好きな物や好きなこと、とにかく好き全般を好きと言うのも難しい。

私の好きを嫌いな人に否定された時に、好きを好きでいられない気がして、だったら私だけの好きでいればいいや、と思ってしまう。

なるほど、意志が弱いのかもしれない。

 

ってね、6月20日に書いて下書きに残してたので投稿しておきますね