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私と本とその他色々

自己調和と春

気がついたら桜が散っていた。

春は一瞬で刹那的なものだなぁとふと思う。実際世間一般的な春らしい瞬間なんて桜が咲いている間ぐらいなものではないのか。

桜が咲く前は寒いし、散ってしまった今は暑い。

春はあけぼの。かの清少納言は言う。

あけぼの。

 

あけ‐ぼの【×曙】
1 ほのぼのと夜が明けはじめるころ。「朝ぼらけ」より時間的に少し前をさす。夜明け。東雲(しののめ)。
2 新しく事態が展開しようとする時。「日本歴史の曙」

 

出典は大辞泉より。

高校生の頃に古典の授業で聞いたような気がする言葉を改めて調べたりすると楽しい。

と言うより、26年そこら生きた程度の私は無知だ。世の中には知らないことの方が多い。

知らないことを指一本で知ることが出来るこんな時代に生きながら知らないことに溢れている。

 

話は戻り、あけぼのについて。

平成が終わり元号は令和になるらしい。SNSでも見かける『平成最後の〇〇』

これこそ日本の新時代の曙なのではないでしょうか?違う?日本語、よくわかんないね。

 

先日友人にあった際に「学生時代からすごく無理をする子だったよね」と言われたことがあった。

基本的に笑ったりやふざけたりすることが得意ではないけれど、そういったことを求められている気がして(というより出来ないと自分の居場所を失う気がして)頑張る子供だった。

 

今はこうやって見ていてくれる人がいることを知っているので、比較的楽になったかと思う。

そう、誰かが知っていてくれると言うことは意外と心が穏やかになるものなのかもしれない。

 

後輩が自分が何かをしている時、後々出会う人が何をしていたかということについて考えるのは(知るのは?)感慨深い、みたいな話をしていて、朝のリレーと言う詩を思い出した。

カムチャツカの少年がキリンの夢を見ている時、から始まる人の世界は並行世界であることを証明する有名な詩。

あー、確かにそうだなぁと思って。

生き方も生まれ方も選択肢も違う人間が東京という土地で会うというのは割と凄い偶然であって、人それぞれ物語があるわけで。

なかなか感慨深くて面白いと思った次第、平成最後のほうの気づきと発見ですかね。

 

そんな私は今日から暫くお暇頂いております。ゆっくり自分の時間を過ごそう。

ご機嫌よう。

笑ったりとか

笑うことが苦手だ。

どのくらい苦手かと言うと、過去にバイト先で笑顔の練習をさせられるくらい笑えなかった。

斜に構えていた時期だったので、何も楽しくなくて笑わなかったと言うのもあったのかもしれない。

今となっては何事も否定から入ることは損だと理解はできるのだが、尖っていることが個性だと勘違いして居た頃の私は、他者を否定することで自分は唯一無二であると思い込みたかった。

 

25歳を越えた頃から好きなものや人が増えた。

人との関わりから得るものを素直に受け取ることが出来るようになった。

 

京葉線の高架上から見える変な形の橋を、空へ向かってキリンのように伸びるクレーン車を、綺麗だなぁと思える。

ベーコンエピはちぎって食べられる、噛めば噛むほど味がある。なんて優秀な食べ物なんだろうとか。

誰かから言われた共感の言葉を理解をしてくれる人がいることは嬉しいことだとか。

寒い日の夜の都会は笑いながら走るとすぐに肺が痛くなるとか。

 

受け入れられないことを受け入れることが出来るようになった時点で私は多分昨日の私よりは大人になっている。

 

境界線

新年に髪の毛をバッサリと切った。

昔から嫌なことがあると美容室に行く。2年くらい前まではロングヘアだった。

そこから比べると大層さっぱりとしたものだと思う。そして、いやなことが続いたのだろうと過去の出来事に想いを馳せたりもする。

 

先日、同僚に「誰にでも慈悲深くて、平等にやさしいよね」と言われた。

言葉をうまく返せなかった。褒められているのだろうか、それとも責められているのだろうか。

学生の頃は、決まった人にありったけの愛情を注ぐ人間だったかと思う。そして同じことを相手にも求めることが多かった。

そのうち、人とかかわることが毒になり、人とかかわることを辞めた。

関わらなければ社会に疎くなったので、人と深い関係になることを避ける方向にシフトチェンジをした。

先入観もなく誰にでも優しく、見返りを求めず他人に期待をしない。期待をしなければ、だれも私を裏切らない。

冷めてしまった。氷点下、もう自分以外のものに熱を持つことが出来ない。

 

普通に考えれば誉め言葉であろう言葉が刺さった。

かつて自らに死んでやろうとまで考えさせた対人関係とやらの私なりの着地点を見つけたはずだったのに。

年を食ったと考えれば腑に落ちるのかもしれない。年を取ることは、何かを諦めることと似ていると思う。

 

年を取ったと思う出来事が増えた。穏やかになったのではなく、冷めてしまった。

受け入れるのではなく、興味がなくなった。

そういえば一年くらい他人に怒ったこともなかったなぁなんて思う。

怒るだけの気力もなくなった。26歳ってそういうものか。

インストールと私

綿矢りさのインストールを読んだあの日、わたしは中学三年生だった。

 

夏休み。長いけれどいつの間にか終わってしまう人生の空白を、なにをするわけでもなく、ただのんびりと、寝たり起きたりを繰り返していた。

8月も下旬、読書感想文と言う夏休みの代名詞ともいえる課題を置きっぱなしにしていた。

当時、活字など無縁だったわたしは、渋々家の裏の坂道のてっぺんにある本屋さんにまで本を買いに行ったのだった。

 

T書店は近頃にしては珍しいくらい文庫本を揃えている書店であった。

夏休みに読む1冊という活字離れを危惧した出版社たちによるキャンペーンは当時から行われていて、夏休みのためのオススメ書籍なんかが綺麗な表紙をこちらに向けていた。

でも、私はどれにも興味がなかった。早く買ってしまおう。家に帰ってしまおう。

 

数年前に最年少にて芥川賞ダブル受賞をした綿矢りさと、金原ひとみの作品はまだまだ本棚の目立つところに置かれていた。

メドゥーサみたいな女の人が、青い学生服の女の子のが、私達は選ばれたんだとその本棚で1番主張が激しくて。

それを素直に手に取るのは、なんだか安易だと思ったので、傍らの綿矢りさのインストールを手にしてレジへと向かったのだった。

 

引きこもりの女の子が、出会い系サイトでサクラをする話だった。それも、頭のいい小学生の男の子と。

読み終わって初めて抱いた感想は青春であった。

わたしは、この眩いばかりの青春を過ごしたことがあっただろうか。いや、無かろう。創作の中であったとしても、私が今まで見たどんなドラマや漫画より屈折していて、荒々しい青春。憧れるには容易かった。

 

14歳の私はそれから幾度となく読書感想文を書き、成人をし、大人になった。

もちろん、出会い系のサクラに没頭する青春を送るわけでもなく、普通のOLになった。

今思えば、インストールは、わたしの人格形成を変えた一因だったのかと思う。あの夏の日、坂道を登ってたどり着いた本屋で手に取ったのが舟を編むだったとしたら。

 

わたしは今頃どこで何をしているのだろう。

 

愚行録

愚行録

貫井徳郎

★★★★☆

イヤミスらしいイヤミスですよね。貫井作品らしいなと思います。

「途轍もなく陰鬱な小説を書いてしまった」と作者自身が漏らしたというこの作品。

確かに陰鬱、かつ人間不信に陥りそう。

ただ、彼の著作にはもっと残忍な描写のある作品が多いんですよね。殺人の経緯なんか結構細かく描写されているのですが、この作品には、そういった直接的な描写は一切無し。

じゃあ何がそんなにも陰鬱であるのか。

 

舞台は池袋から少し離れた完成な住宅街。

大手建設会社に勤めるエリートサラリーマン、その美人妻と子供2名の一家が惨殺されるという事件が起きます。

この小説は、近隣の住民や大学や職場の同僚が事件を探るルポライターに取材を受けている体で進みます。

 

一体何がそんなに陰鬱かという話に戻るが、とにかく、ルポライターや被害者一家に対する好奇心や、表には出さない悪意のようなものが見事に描かれている。

「いつでも取材に来てくださいね」というスタンスの人もいたけれど、いや、あなた絶対ほかの人にペラペラ喋りたいだけでしょう。みたいな部分とか。

あとは被害者夫妻、実はそんなに良く思われてなかったんですよね。

無自覚の悪だったのか確信犯だったのかは読者におまかせと言ったところなのでしょうか。

なのに「それでもいい人でした。あんな目に遭うなんて信じられません」みたいな話を見ていると、ああこういうものだよねぇとより陰鬱になってくる。

1章ごとの最後に謎の兄妹(妹視点)の会話も入ってて、この内容がまた良くない。被害者が上流階級の人間である分、酷い生活を送っている兄弟の落差が酷い。

そして、ラストは流石貫井徳郎叙述トリックがうまいの一言。

素敵なキャストで映画化もされていますが、

まずは欲しい1冊でした

愚行録 (創元推理文庫)

限りなく透明に近い

ブルーでは、なくって。

 

今朝は7時を知らせるけたたましい音で目が覚めた。

布団から右腕だけを出して、頭のうえのほうからなるそれを、寝起きのゆらゆらした感覚のまま叩きつけて。

そのまま沈んでしまいそうに身体が重たかったので、ふと、ラジオ体操をしてみることにした。

ラジオ体操なんて高校ぶりくらいにしてみたのだけど、驚く程に冴えるのでわたしの方がびっくりした。

 

ラジオ体操いいよ。

ちゃんと指の先まで針金が入ってると思いながらやってみたことはありますか。

背筋を伸ばして、つま先立ちをして、ラジオ体操日本代表だと思ってやってみると、五月病だろうが六月病だろうが、世界はガラリと変わります。

 

少なくとも「今日も一日頑張ろう」と思えるメンタルを養えるので、明日もラジオ体操をやってみようとおもう。

使い捨てのぽい

わたしの作るデザインはいくつかの多分癖がある。

補色をよく使うことは自覚がある。なぜ使うかというと、よく目立つから。あと、なんだか楽しそうだから。どうせなら楽しいものをつくってるほうがたのしい。

 

資料とかポスターを作ると文字が少ないのも自覚がある。なぜかと言うと、わたしが小説以外の文体を読むことが苦手だから。字幕映画もダメ、電車のドアの上の流れてくる文字も疲れる。

だから全部図説して、直感的なデザインにしてしまう。引き算で物事を考えようと思ってる。最小の単元で、いかに、わかりやすく。

 

幸いそんなデザインでわたしはなんとかご飯を食べていけてるけれど、これは癖が目立たないことと流行になんとか乗っかれただけだと思ってる。

例えば、今は縦長で細い文字が流行り、とか墨だまりのあるナチュラルな文字が流行り、とか。

それを含めた行為がデザインをするということなのかなぁ。

 

遠い未来、身についた流行りやらが、わたしからデザインをするということを奪ってしまうのではないかと思って最近は悩んでいて。

いつか、惰性に負けて「かわいいよね」の個人判断で、みんなが嫌なものを作ってしまったら

 

そうなるまえに、デザイナーをやめてしまおう。